お米でも… 切っても切れない日中の関係
私たちがいつもおいしくいただくお米。近年お米のDNA解析によって古代日本と中国をめぐる関係性が次第に明らかになってきています。通説では日本のお米は揚子江流域原産のお米が日本に伝わって「ジャポニカ米」となったとされていますが、最近の研究から、実はその前には日本から中国に伝わっていたのではないか、という興味深い説があるのでご紹介したいと思います。
中国文明は長江(揚子江)文明と黄河文明の争いの歴史でもあります。古い時代の長江文明は、入れ墨、下駄、高床式住居、米作り、が特徴で、人種はモンゴロイド人種であったとことがDNA分析から分かっています。こう並べると、つい最近まで残っていた日本人と同じ姿ですね。まず入れ墨ですが、これは裸を常とした海洋民族の特徴で、サメ除けのまじないからおしゃれに変化したとされています。現代にも残る風習です。また「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」で有名な長江流域の越王匂践も入れ墨をしていました。次に下駄や高床式建物は亜熱帯湿地帯の習俗ですが、高床式建物は日本のどこでも見られます。その最たるものが神社であり伊勢神宮です。当然、彼らの主食は米だったことになります。現代日本でも、玄関で靴を脱いで、一段高い床に上がり、お米を食べ、お正月には神社にお参りする、古い祖先の生活スタイルを継続しているなんて驚きですね。
これに対し黄河文明は北の乾燥した寒冷地ではぐくまれた文化ですから、粟や稗が主食で、寒いので履物を脱ぐ習慣はありません。そこで椅子文化が育ちました。その始まりはDNA分析からヨーロ
ッパ系の白人種であったことが分かっています。脚が長く色白です。彼らは基本、遊牧や狩猟民族ですから武力に優れ、よく言えば勇猛果敢、悪く言えば略奪的な性格だったようで、最終的には入れ墨や下駄、高床式建物などの南方文化は彼らによっては滅ぼされることになりましたが、稲作文明はその後も広がり続け現代まで続いています。
周から秦に至るまでの春秋戦国時代(紀元前770年~前221年)の動乱期、長江文明の人たちが戦争難民となって東シナ海を渡り、日本に「ジャポニカ米」をもたらしたとされています。朝鮮半島経由で入ってきたかもしれません。丁度そのころ3000年前に弥生時代が始まっているのです。弥生文化のにない手は長江の人たちと考えるとつじつまが合います。
話は戻りますが、揚子江周辺の稲作は何の脈絡もなく7300年前、突然に姿を現しているのです。おりしも7300年前の日本で何があったかというと、人類史上最大の大災害が起きたのです。鹿児島の南に種子島、屋久島がありますが、もともとは鬼界島を中心とするカルデラの外輪山だそうです。その真ん中で人類史上最悪の大噴火が起こり山が吹っ飛んでしまいました。九州一円と西日本は火山灰堆積による壊滅的打撃を受け、数千年のあいだ人間の住める場所ではなくなってしまったのです。そこにいた縄文人はもともとは南方から上がってきた海洋民族ですから、一部の人たちはお米を持って揚子江方面、朝鮮半島方面に避難したのではないかと想像できます。そうだすると7300年前の長江文明の発生が説明できます。そしてジャポニカ米の原産地はやっぱり日本だったのではないかということになるのです。
揚子江のほとり南京に3か月住んだ経験がありますが、周りの人たちの顔つきは日本人とほとんど変わりません。北京の人たちとは違っていました。中国では長江周辺に美人が多いといわれるのも、日本人と共通の血が流れているからと考えるとうれしい話です。中国と日本はこれまで政治的に微妙な関係にありましたが、親類関係であることは疑いがないようで、お互いを尊重しながら国民同士の友好は将来も守ってゆきたいものです。