淀屋物語、淀屋橋は今も大阪を背負って立つ
日本のビジネスマンで「淀屋橋」を知らない人はいないでしょう。
言わずと知れた大阪の中心地ともいえる一画にかかる大きな橋のことです。でも名前の由来についてご存じの方は案外少ないのではないでしょうか。たもとの石碑によりますと、江戸時代ここに巨大な商売を営んでいた「淀屋」があり、商売のために橋を作るほどの財力があったが、あまりに贅沢三昧をしたことを江戸幕府から睨まれて取り潰しに遭ってしまったとあります。
先日鳥取県の倉吉市を訪れる機会がありました。玉川という堀川に沿って白壁土蔵群が並んでいる姿は、懐かしい日本の原風景です。ここは古代から山陰と山陽を結ぶ交通の要衝で多くの商家が立ち並び人の出入りも盛んだったそうですが、今は歴史の表舞台から遠ざかり昔を懐かしむ街並になっています。いかにもレトロっぽくて若い人たちの間では結構人気だそうです。その良さを残してゆこうとする町の人たちには誇りが感じられます。その一画に築260年の大きな商家(いまは歴史記念館)「倉吉淀屋」を発見しました。私達大阪人が憧れる「淀屋」がここの屋敷から再興されたという話に驚きました。
ここから淀屋物語になります。
初代淀屋、岡本常安という人は枚方の武士でしたが、秀吉の時代に材木商に転じ堤防工事で財を築きました。大坂夏の陣で家康に茶臼山本陣を献じた功績で独占事業を許され、葦やススキばかりの砂地だった中之島を開拓し、日本中の米や産物が集まる蔵屋敷、米相場を作り、大坂が日本の経済の中心地となる礎を築きあげ、日本一の豪商となりました。巨万の富で西国大名のほとんどに大名貸しをおこなっていたと伝わります。建物には金を張り詰め金のふすまを立て、ガラス張り(当時は超高価)の天井には金魚を泳がせたそうです。その様子を横目に見ていた江戸幕府は贅沢禁止令にそむいたという口実をもうけて5代目のとき取り潰してしまったのです。実は西国大名の救済が目的だったようです。その富は今のお金で100兆円以上といいます。これで淀屋の歴史は終わったかのように見えましたが、60年後再興されることになるのです。
じつは4代目重当は、いずれ幕府から取り潰しに遭うだろうとことを予想していました。そこで最も信頼する番頭、牧田仁右衛門に淀屋再興の願いを託して財産分けをし、故郷倉吉に帰していたのでした。離別状には無念の言葉と淀屋再興の秘策が書かれ、5代目広当には贅沢三昧をさせ、幕府の目をかわして倉吉を守ると書いてありました。仁右衛門は恩に報いるため血のにじむような努力と知恵でやがて大きな商売を営むことがでるようになりました。力を貯えたところで牧田家2代目孫三郎が大坂に移り同じところで多田屋を始め、これが後に「淀屋」と改名され淀屋再興の夢が果たされたのでした。その後「大坂淀屋」は5代、「倉吉淀屋」は8代まで続きましたが幕末に突然すべての財産を処分して「淀屋」の歴史は終わりました。処分した財産は倒幕運動のため朝廷に献上したと伝えられています。もしそうなら前期淀屋の無念を倒幕で晴らしたことになるのでしょうか。その間ずっと「淀屋橋」はあり続けたのです。
淀屋橋周辺を歩いていると、誇り高そうなビジネスマンとOLで満ち溢れています。「淀屋橋で降りる。」というのはビジネスマンのステータスといっても良いくらいです。砂地だった中之島が大阪の中心地になり、明治維新でも大きな役割を演じ、世界に通じる「淀屋橋」になった姿を歴代の淀屋の当主が見たらどれほど嬉しく感じることでしょう。緒方洪庵、福沢諭吉、大村益次郎、五代友厚、橋本左内、西郷隆盛、坂本竜馬らも通ったこの歴史的な橋をもう一度よく御覧ください。皆さんも一度、大阪の恩人のふるさと「倉吉」を訪れられてはいかがでしょうか。いまも大阪との絆を誇りにしてくれている「倉吉」にも感謝して。