邪馬台国はヤマトである。【朝倉】がキーワード
少し硬いかもしれませんが、今月は私の好きな古代史のお話をさせてくだい。「ヤマト」という響きはすべての日本人の郷愁を誘います。ふつう「ヤマト」いえば誰もが奈良盆地を思い浮かべるのですが、歴史に少しでも興味のある方は「邪馬台国」という呼び名も思い浮かべられることでしょう。日本史では「ヤマタイコク」と習うのですが、実際は「ヤマト」と呼ばれていたに違いありません。その国は女王「卑弥呼(ヒミコ=日巫女?)」が周辺の21か国を統治しており、日本史上初めての国家であったことが3世紀の中国の史書「魏志倭人伝」に記されていて、古代「ヤマト」王権が九州にあったのか奈良にあったのか、ひいては現代にいたる天皇家に血がつながっているのか、江戸時代以来深淵な論争がつづいています。
歴代126代の天皇で「神」がつく天皇は、わずか3人、初代神武、第10代崇神、第15代応神天皇で、いずれも建国の天皇として特別の扱いがされています。まず初代神武天皇は日向の国を出発し、宇佐を経由し近畿に入っています。ただし実体は崇神天皇のことではないかといわれています。また神功皇后から生まれた応神天皇は博多から近畿に攻め上っています。このように国家統一へのエネルギーは九州から起こり東へ、東へと移動してきたという流れは否定しようがありません。
後世、天皇家は「二所宗廟」といって、先祖代々の聖地として伊勢神宮と大分の宇佐神宮を大切にしてきました。宇佐神宮は全国で一番多い八幡社の総本山です。その分社が石清水八幡宮となり、後にここが伊勢神宮と並んで二所宗廟とされました。天皇家の血統が問題になった道鏡事件の時には、伊勢ではなくわざわざ遠い宇佐神宮に神託をもらいに行かせたくらいなので、崇敬の念は伊勢神宮よりも宇佐神宮の方に大きいように思えます。そのこだわりから見て宇佐がご先祖の地と認識されていたに違いありません。
宇佐神宮に参拝すると、順に応神天皇、比売(ヒメ)大神、神功皇后の三拝殿が並んでいます。その配置からは主祭神は中央の比売大神としか思えません。この比売大神って誰かということです。羽曳野市にある応神天皇陵は世界でも一二の規模を誇り、どれほど大きい存在であったことが想像できます。比売大神はさらに格上の神様だというのですから、思い当たるのはご先祖の天照大神しかありませんし、女王「卑弥呼」が連想されます。そんなことから「卑弥呼」が天皇家の祖先であるらしく、本来の「ヤマト」は九州にあったらしいという事になるのです。最近まで朝倉の近くに山門(ヤマト)郡がありました。
「ヒミコ」を盟主とする国々が北九州から奈良盆地に移動してきたと思われる証拠があります。地名は歴史の化石ともいわれて、何千年も変わらないことがあります。二つの地域の地名の酷似に驚いていただきましょう。[福岡県の朝倉市]を起点として類似の地名を時計回りに展開してゆくと①山田、②雲提、③筑前高田、④小田、⑤栗田、⑥三輪、⑦長谷山、⑧加美、という事になります。一方崇神天皇の宮跡ではないかという[桜井市の朝倉]を起点として展開してゆくと、1)山田、2)雲梯、3)大和高田、4)織田、5)黒田、6)三輪、7)長谷山、8)賀美、となりそれぞれの位置関係まで酷似しています。こんな偶然は絶対にありえません。国単位で集団移動してきたとしか思えないのです。こうして「大和」が政治の中心となりました。
福岡県の朝倉市では吉野ケ里遺跡を上回る6重の環濠集落「平塚川添遺跡」が発見されています。
実は福岡県は銅鏡、鉄刀、鉄矛などの日本最大の出土地なのです。大和の三輪には日本最古の神社「大神(オオミワ)神社」があり、麓の発掘で「崇神天皇の宮跡」と見られる遺構が発見されています。
このようなことから「卑弥呼の邪馬台国は福岡県の朝倉市にあったが、筑後川の大氾濫を機に原郷を捨て、川をさかのぼって宇佐に移り、そこから近畿に向かって「神武東征」が始まったのだろう。」と想像しています。そして歴史上の人物「卑弥呼」は天皇家の祖先、天照大御神と同じ人物だったと想像されるのです。
こんな悠久の歴史感じながら大神神社にお参りされてはいかがでしょうか。ここは間違いなく日本の聖地だと感じられることでしょう。