浪速の適塾からiPs細胞利用の心臓外科までの歴史
先日、大阪大学医学部の「医学伝習150年記念祝賀会」に参加しました。
緒方洪庵の「適塾」はご存知でしょうか。
幕末の頃、全国から学生を集めて蘭学を広めたことは日本史の教科書にも載っていますね。ここから福沢諭吉、橋本佐内(安政の大獄で獄死)、大村益次郎(官軍の司令官で靖国神社を創立)、大鳥圭介(東大工学部と学習院の創始者)、佐野常民(日本赤十字の創始者)らの明治時代の政治、医療、文化を形成した優秀な人材を輩出したことは大阪の誇りです。奇跡的に戦災を免れ、今も当時の姿で淀屋橋の一角にたたずんでいます。
洪庵は幕末の江戸幕府に招かれ、コレラ予防のための「種痘所」を作りました。これが後の東京大学医学部の前身となりました。
福沢諭吉は慶応大学を設立しました。大阪大学は適塾の後を継ぐ大学であるとしていますから、東大、慶応、阪大は親類関係ともいえます。卒業生の手塚治虫は漫画「陽だまりの樹」にひいおじいさんを登場させて適塾の若者群像を描いています。
記念講演で澤教授が心臓外科のお話をされました。
今回は心臓外科の発展についてお話させていただきます。
戦前も胸部外科はありましたが、主に肺結核の肺摘出術が主な仕事で、心臓にメスを入れることは不可能でした。心臓は血液の充満した袋で片時も休まずダイナミックに動いているのですから、メスが入ったとたんに出血多量で即死です。心臓を止めて、そのあいだ血流を送り続けることができる人工心臓の開発を待たねばなりませんでした。
心臓にメスが入ったのは昭和30年代、日本での第1例は阪大でおこなわれました。その頃から心臓外科のセンターとして位置づけられています。
その後技術は向上し、安心して手術を受けられるようになりましたが、私がまだ研修医だった頃は先天性奇形と弁膜症が主な対象でした。
大血管をポンプにつなぎ換え、電気ショックで心臓を止め、切開し操作した後に閉じて再び電気ショックで動かすのです。ドンッという衝撃とともに動き出す心臓は感動的なものです。心臓停止中の人工心臓の期限はせいぜい数時間でしたが、今は改良され何ヶ月という単位で代用できるようになっています。将来は永久的になるかもしれません。
1968年世界で初めて南アフリカで心臓移植手術がおこなわれました。
一例目は18日、二例目は500日生存しました。日本でも同年札幌医大で第一例目の移植手術がおこなわれましたが、患者の宮崎君は83日後に亡くなりました。
その頃はまだ死の判定が確立しておらず、この手術が必要であったのかを問う声も多く、担当した和田教授は殺人罪で告訴されるという有様でした。
その後、脳死を死とするのか心臓停止を死とするのか国民的議論が闘わされたことはご存知のことと思います。
長い停滞のあと1997年ようやく「脳死を死とする。」と国民的合意が形成され「臓器移植法」が成立したのです。
世界から遅れること31年、法成立後初の心臓移植手術が阪大でおこなわれることになりました。厚労省は第一例を阪大でと願っていたそうです。その後全国でも移植手術は拡大し、今では全国で年間40名以上の患者さんが救われているそうで、このごろではあまり大きなニュースにもならないようです。
その他心臓外科領域では低浸襲性手術、カテーテルによる弁置換手術手術、ステント留置が盛んになりますます心臓手術は安全になり体の負担を軽減する方向で進んでいるのはご存知の通りです。
当院でも5本もステントの入っている方がおられるくらいです。
今、阪大で取り組んでいるのは、自分の大腿の筋肉の一部を培養し、シートにした上で弱った心臓に貼り付けるという試みです。これに加えてiPs細胞を使っての心筋シートを作る方法も試みられています。シートになったiPs細胞がシャーレの中で拍動するのを見ていると未来を見ているようです。もうすぐ成功の報道がなされるものと信じています。
私達が小さい頃は、心臓にメスを入れるということは神が禁じた行為であるとされたものですが、いまや市中病院で心臓手術がされる時代となりました。これで救われた人命は数限りを知りません。その中心に阪大があり、国立循環器センターがあり、私達の住んでいる関西、大阪はそういう意味で大変有利な地域だと思います。