世界文化遺産「百舌鳥・古市古墳群」について
百舌鳥、古市古墳群が世界文化遺産に登録されました。世界中の人が世界最大の陵墓といえばエジプトのピラミッドを想像しますが、じつは面積でいうと堺・百舌鳥の大山古墳(仁徳天皇陵)が世界最大です。こんなすごい歴史遺産が大阪府の中にあるこということにも日本中の方が驚かれたのではないでしょうか。しかも古墳の主は、現在の天皇家のご先祖ということで、日本の皇室は世界最古の王室ということも再認識させてもらいました。今回は百舌鳥・古市古墳群のなかの代表格の二つの古墳についてお話させていただきましょう。
4世紀後半に造られた堺の大山古墳は仁徳天皇陵とされています。父君の応神天皇の御陵は羽曳野市古市にあって誉田御陵とも言われます。誉田と書いてコンダと読みます。もともとの尊称のホムタワケノミコトがホンダとなりコンダに転訛したものと思われます。地名としてかなり古そうです。応神天皇といえば三韓征伐の途中、神功皇后が北九州でお生みになり、その胎盤を納めた箱を埋められた浜辺が福岡市の名社箱崎神宮ということになっています。大分県の宇佐から瀬戸内海を攻め上り、近畿で新しい王朝を作ったとされる方で、八幡の神様、武家の棟梁と崇められています。宇佐神宮が全国の八幡神社の総本社とされるのはこんな歴史があるのです。彼にはいつも神功皇后と武内宿彌(タケノウチスクネ)が供奉しています。勢力の源は北九州の安曇族(アズミ)でした。全国の津々浦々の住吉神社の祭神には必ず応神天皇、神功皇后、住吉大神が祭られていることから、住吉大神とは武内宿彌の別名だと思われます。
安曇族は東へ東へと攻めのぼり、拠点と住吉神社を造っていったのでしょう。行き着いたところが浪速(ナミハヤ)のアズミノエでした。いつしかアズミノエがスミノエとなり住の吉(スミノエ)と表記され、平安時代からはスミヨシとも呼ばれるようになったようです。ここ住吉大社は現在も交易の守り神として大阪中の尊敬を集めているのはご存知の通りです。安曇族はさらに東へ移動を重ね、その足跡は安曇川、渥美半島、安曇野、熱海、ひょっとするとアズマなどの古い知名に残っています。このように沢山の伝承とそれに符号する歴史的証拠から、応神天皇は実在の人物であったと思われ、その事績が神武東征のモデルになったと考えられています。
御陵の傍には宮内庁の立派な事務所があり、歴代天皇の中でも特別な存在とされていることが実感されますし、傍の誉田八幡宮には源頼朝が奉納した国宝のお神輿があったりして、ここは大変由緒正しいところであることがわかるのです。
かつて歴史好きの親友と応神天皇の子息である堺の仁徳天皇陵を訪ねたことがあります。現地の説明はこうです。「これだけの大規模な工事は鉄器なくしては成しえなかった。長期間の鉄を供給した集団がいたはずで、後世に河内鋳物師といわれる人たちが集落を構えたところが堺の原形となった。
奈良時代、平安時代には全国の仏像の鋳造に携わった。鎌倉、室町時代は刃物を作り、戦国時代は当時ポルトガルから持ち込まれた火縄銃を作ることで歴史に影響を与えた。(堺には「鉄砲町」が今も残っています)。江戸時代には幕府の認可を得て刀、包丁を作った。(堺刃物はいまも世界中の料理人があこがれる一級品です。)明治の文明開化で鉄工関連の工業地帯となり、その高い技術を見込まれて持ち込まれたのが自転車試作の話でした。これが堺の自転車工業繁栄の基となりました。」ということです。
私が若い頃、堺には中小の自転車関連の部品メーカーが沢山残っていました。ハンドル、ギア、歯車、チェーン、変速機、ブレーキ、ペダルなど全部のメーカーが揃っていたものです。時代は変遷し個性のあるメーカーは無くなってしまいましたが、唯一「シマノ」は世界的企業となり高級自転車部品の専門メーカーとして今も頑張っています。一見なんの関係ないように思える仁徳天皇陵と堺の刃物、自転車産業は深い歴史で結びついていたのです。
百舌鳥、古市古墳群に行っても小高い山が見えるだけで感動的な景色はありませんが、飛行機から見て初めて壮大さに気がつくのです。関空から難波の途中にあり大阪万博もあることですし、これを機会にぜひ歴史的価値を外国の方にも分かってもらえる方策を考えていただきたいものです。