子を思う母の愛。奇跡は起こった。

寺岡内科医院 院長の元気塾202212「奇跡的に助かった」という言葉は時々耳にすることがありますが、本当の奇跡を経験されたご老人のお話です。

この方は大正15年のお生まれですから今年98歳になられます。高齢にもかかわらず介護のお世話になることもなく、気力、知力は大したもので、昔のお侍を思わせる凛とした方です。戦争の実体験を語れる人が少なくなってゆく中で、このように貴重な話を聞かせていただけることはめったにあるものではありません。後世へ伝えたい語り部のお話をぜひご披露させていただきたいと思います。

太平洋戦争が始まった当時、軍国少年は視力の良さを買われ特別に海軍に雇われ、軍艦に乗ることになりました。そして3回も南洋で沈められ、そのたびに助けられ、しかも原爆もすんでのところで逃れられたという強運の持ち主です。

3回目の沈没の時の話をさせていただきましょう。台湾付近を航行中、明け方に敵機の襲来を受けました。最初は水平線上にきらきらと美しく光っていた戦闘機でしたが瞬く間に頭上に迫りました。まるで上空が黒雲に覆われたようになり、銃撃と爆弾が降り注ぎました。こういう場合艦橋は危険なので自室に戻ることに決まっており仲間と潜んでいたところ大きな衝撃が走り、なぜか自分だけ防護服を担いで部屋を飛び出たそうです。しばらくして自室に戻ってみると、爆弾が直撃した後で仲間は全員即死でした。そうこうするうちに船は傾き沈没、海に投げ出されました。時は1月、いくら南海とはいえ冬の海は冷たく数時間もすると体温が奪われ、次第次第に体が動かなくなり、意識も暗闇に引きずり込まれる感じで遠のいてゆきました。

10時間もたったでしょうか、ふと気が付くと光に包まれた白い霧の中に虹の橋を独り歩いている自分がありました。「あー、これから三途の川に行くんだなあー。」と思ったとき頭上の霧が晴れ、青空の中浮き雲が生まれ故郷の山口に流れてゆくのが見えたそうです。「あの雲になって故郷に帰りたい、雨粒になってでも故郷の土に帰りたい。」その瞬間、故郷の上空を飛んでいる自分がありました。「美しいなあー。帰りたいなあー。」と思ったときに目が覚め、目前500m先に救助の船が見えたので「そりゃ死に物狂いで手を振ってようやく助けられたんですわ。」「鮭や渡り鳥が生まれ故郷を目指す気持ちってこんなんかなと思います。」

そのあとも災難は続きます。奇跡的に救われた命でしたが、軍は無慈悲にも少年工兵という名で特殊作戦の訓練所へ送り込んだのでした。それはベニヤ板で作った爆弾搭載船での体当たり訓練所でしかありませんでした。「せっかく助かったのに、やっぱり死なんとあかんのか。」とあきらめの日々でしたが、ある時、手旗信号の技能が要るということで通信隊に転属となりました。その後1か月、原子爆弾がさく裂し、訓練所の仲間は全員死んだことを知りました。

戦後になって易者に見てもらったときに、「あんたには3回もの水難を全部乗り切って来られた相が出ている。ご先祖のおかげやねえ。」といわれたとき、「(2歳の時に亡くなって顔も覚えていない)お母さんのおかげや!」と瞬間に悟ったそうです。「自分は特に信心もないし家が神や仏を大事にしていたわけでもないけれど、魂があるとは思う。本当に母親が守ってくれたんだと思う。そうでなければこんなことは起こりえないでしょ。母に感謝しています。だから戦争で亡くなった戦友たちの魂もあると思うので毎年靖国神社には通いました。」とおっしゃいます。   

戦後は結婚され、市井の一人として工務店を経営され、優しい奥様と順調な人生を送られ、現在もお二人で助け合いながらお暮しです。

このお話から私なりに感じることは、天の采配というものがあるのではないか。母親の愛がわが子を導いたのではないか、臨死状態では光に包まれる体験があるのではないか、三途の川はあるのではないか、死に際には幽体離脱ということがあって、いろいろなところをめぐるのではないか、ということなどです。易者が3回の水難事故を当てたことも不思議です。

世の中には、科学で説明できない不思議なことがあります。虫の知らせ、偶然の一致、テレパシー、予知夢、末期癌が治ったなど、きっと皆様にも経験がおありだと思います。でもそれは否定できない事実なのです。非科学的だと切り捨てるのではなく、どこからかの知らせだと謙虚に受け止めれば、新しい世界が広がると思うのです。(これまでの)科学がすべてではありません。