忘れられない患者さんのお話

寺岡内科医院 院長の元気塾202605医者人生の中で最も貴重な経験は何かと尋ねられたら、「死の直前の感覚」を患者さんから教わったことです。それは私の死生観の根底となりました。40年も前のこと私は府立羽曳野病院という呼吸器専門の病院に勤務していました。

そこでは年に2、3回は学会発表をすることが義務となっていて、若い私は呼吸器、免疫、アレルギー関係の基礎的、臨床的研究を毎日飽きず続けたものです。その一環として「アストグラフ」という最新鋭の機械を用いて気管支の過敏性検査をしていました。しかし、それは若干のリスクを伴うもので、急変時には早急な対応が出来る大病院ならではの生体検査でした。

それまで喘息は「アレルギー」のせいで気管支が発作的に縮んで息が苦しくなる病気だと一般的に考えられていましたが、「アレルギーだけが原因ではなく気管支の過敏性が大きく影響する」ことに注目した研究でした。ヒスタミンという名前はお聴きになったことがあると思いますが、これは喘息や蕁麻疹の原因になる物質です。それを極く薄い安全濃度の吸入から始めて徐々に濃度を上げてゆき、気管支が細くなる瞬間を精密に感知するように設計された装置が「アストグラフ」でした。喘息患者の場合、普通の人ならば反応しない薄い濃度のヒスタミンで気管支が細くなるのです。反応が始まる濃度が薄いほど過敏性は大きいということになります。この装置で何十人という方々の気管支過敏性を安全に測定していましたが、この日は違っていました。

72歳の女性患者さんが協力してくださることになり、この装置で「気管支過敏性」の測定をはじめました。ところがよほど過敏性がきつい方だったのでしょう、思いもしない薄い濃度で気管支の収縮が始まり、本当に喘息発作が始まってしまったのです。「ウウッツ苦しい!」と喉をかきむしってもがき始め意識が途切れてしまわれました。すぐ救急処置をしないと命が危ない大発作です。ここで命が失われることになったらどんな大問題になることか・・・不安が宙をさまよいます・・・しかし幸いなことにスタッフ皆さんの総力を挙げての応援もいただき、気道を確保しながらICUへと運ぶことができ、その夜には事なきを得たのでした。

翌日、とんだ苦しい目にあった昨日のことをさぞ怒っておられるだろうと恐る恐るお詫びに上がったのですが、その方は怒るどころか「気にせんといてえ、あの時は気持ちが良かったぁー。あんな気持ちが良いこと初めてやぁ。何もせんと放っておいてほしかったわぁー」とのお言葉です。天地がひっくり返ったような驚きです。あれほど表情をゆがめて苦しんでおられたのに、ほとんど窒息死の寸前だったのに、ご本人の中ではエクスタシーであったというのですから・・・。こんなことがあって「あの世に渡る瞬間には楽になる仕組みが人間には備わっているのではないか?」と思えるようになりました。結核で大量の喀血が始まり、救命処置が間に合わず目の前で窒息死されるお姿に一度ならず二度遭遇したことがありますが、最後の最後にはフウッツと表情が安らぐお姿もその考えを強くさせるものでした。

後に「エンドルフィン=脳内麻薬物質」という物質が発見され、このような幸福感は「エンドルフィン」が死の間際に大量に分泌されるからだと説明されるようになり、謎は解決したかのように思われました。しかしそれではなぜこのような仕組みけが存在するのか?・・・疑問を持たれる方は少ないようです。

苦痛は生き物である以上は誰もが嫌なものですが、他方で大変有用なサインでもあります。苦痛によって異常に気がつき大事に至らなかった経験はどなたにもおありでしょう。苦痛が有益な場合と、この場合のように苦痛を感じなくなる場合の原因はどこにあるのでしょうか。

一つの考え方として、生存できる可能性がある場合には苦痛が必要であって、可能性が無い時には苦しまずにあの世に行ける、都合の良い仕組みが存在するのだとは言えないでしょうか。ひどい痛みや恐怖があるときに気を失う現象もその類かもしれません。こんな仕組みが脳神経回路やそもそもDNAの中に組み込まれているように思えてなりません。

人間は「死ぬとどうなるのだろうか?」という永遠の疑問をもっています。この疑問が宗教を生んだのだと思うのですが、私はこの女性から教えられた貴重な経験から、少なくとも臨死状態の中では安楽な気分に包まれるのだと信じています。それはDNAの中に最初から組み込まれたプログラムがあるからなのでしょう。だって人間が生きている間に起こるすべての事象、熱を保ったり、消化酵素が働いたり、異性に心を寄せたり、抗体を作ったり、癌になったり、とにかくすべての事象はDNAの中にあらかじめプログラムされているのですから・・・。天の計らいとしか思えません。その先、魂がどこに行くのか行かないのか?・・・皆さまがお考えください。